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伏見顕正の政経塾

政治、経済、政界情勢、皇室、中韓、在日問題など、冷静に語ります。

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部落学序説・穢多村の原風景・穢多と塩田事業

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近世の穢多村がどのような村なのか、思いを馳せていたある日、小学校のとき、担任の教師が話していた、「水田・塩田・皮田」という言葉を思い出しました。

水田を耕すのは、ただの百姓。

塩田で塩をつくるのは、塩百姓。

皮田で皮革を生産するのは皮百姓・・・。

それ以上のことは思い出せないのですが、私が小・中・高で勉強していた頃住んでいたのは瀬戸内海に面した小さな町でした。

そこは、江戸時代のときに、遠浅の海を干拓して、塩田が作られた場所で、日常、塩田で働く人々の姿をよく目にしていました。


「塩田で働く人々を昔、塩田百姓と呼んでいた・・・」と、その時耳にしたように思うのですが、まだ半世紀しかたっていないのに、私たちの生活や記憶から、その塩田や塩田百姓はその姿を消してしまっていました。

 

小学校に上がる前までは、入浜式塩田でした。塩田百姓の人が、大きな熊手のようなもので、塩田の砂をならしていました。

やがて、流下式塩田に変わり、昔の塩田の姿は、著しく様変わりしてしまいました。

そして、高度経済成長の時代にはいると、今度は、真空式製塩法が採用され、潮を天火でほして塩を採るのではなく、油をどんどん炊いて、それでもって潮から塩を蒸留する方式へと変えられていきました。

そして、中近東の戦争と石油の高騰で、真空式製塩法は経済的に採算がとれない状態になり、結局、塩田は姿を消し、そのあとには、工場や駐車場、商店街やボーリング場、JRの操車場へと姿を変えていきました。日本は、外国から、純度の高い岩塩を輸入するようになり、日本の製塩業は壊滅的打撃を受けました。

私は、小学校から帰ると、よく、塩田にいって、その岸壁から海を眺めたり、釣りをしたりしていました。夕暮れどきには、浜夕顔や月見草の花がきれいに咲いていました。潮風を思い切り吸うと、何かほっとするようなところがありました。

 

ところが、そういう、ふるさとの光景が、高度経済成長にともなう、工業都市化、近代化によって、ほとんど姿を消してしまいました。

岡山県倉敷市児島には、塩生(しおなす)という遠浅の海が延々と続く場所がありました。しかし、そのような、日本人の、瀬戸内に住む人々の原風景のひとつが姿を消していきました。「ふるさとにいてふるさとを失う」・・・、そんな淋しい思いを経験したのは、私ひとりではないでしょう。

塩田だけでなく、水田も同じです。

自宅から小学校までの通学路、少し市街をはずれると、青々とした稲田が続く畑の中の一本道を小学校目指して歩いていったものです。水田と水田の間を流れる、ちいさなせせらぎや用水路は、学校の帰り際、小学生たちが、メダカをとったり、フナをとったりする遊び場でした。

 

しかし、農業の近代化とかで、パラチオン製剤という農薬が撒かれた次の年には、メダカの姿はどこにもありませんでした。

 

農薬で荒れた水田は、次第に、姿を消し、住宅地や工場へと変身していきました。塩田だけでなく、水田も、その原風景を失ってしまったのです。「故郷にいて故郷を失う」、その寂しさは耐え難いものです。


それでは、「皮田」は?というと、私が住んでいたところには、そういう場所はありませんでしたから、戦後の高度経済成長の中で、「皮田」がどういう運命をたどっていったのか、知るよしもありませんが、そうとう大きく変貌し、やはり、「故郷にいて、ふるさとを失う」、そういう経験をされたのではないかと思います。

「水田」や「塩田」については、私の中に、「原風景」が存在しますが、「皮田」については、何の記憶もありません。ただ、「水田」や「塩田」から類推・想像するのみです。

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