伏見顕正の政経塾

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【イエズス会の野望】②日本を永遠に敗戦国の状態にしたいイエズス会と山本正、転載フリー

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■「タダシ・テディ・ベア」から「日米交流のエース」へ

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 1936年、まるまる太った男の子は、年上の兄弟達から「タダシ・テディ・ベア」と呼ばれていた。その周りでボール遊びをしていたのが、長男の襄治(山本神父)、長姉の故シスター山本愛子(元聖心女学院校長)、次兄清、次姉勇
子、東京銀行元頭取の高垣佑である。当時、香港の日本人小学校には多いときで200人近い児童がいたが、その中のひとりに中村貞子もいた。中村貞子は現在の緒方貞子である。

 「タダシ・テディ・ベア」こと山本正は敬虔なカトリック信者である山本家の末っ子として1936年3月11日に生まれる。正も家族の影響を受け,神父になるつもりで上智大学の文学部哲学科に入学するが、2年生を終えるころにこの
まま聖職に就くのが正しいのか悩むようになり、家族の影響から逃れて自分でゆっくり考えようと58年に米国の大学に編入する。そして、セント・ノーバート大からウィスコンシン州マーケット大大学院で経営学修士(MBA)取得する。
 
 帰国後の1962年に信越化学工業に入社し、小坂徳三郎社長秘書や小坂社長の財界人会議のスタッフなどを務めた。この時から、「タダシ・テディ・ベア」は「日米交流のエース」へと変貌を遂げることになる。そして、小坂社長が政界
進出するのを機に信越化学工業を退社し、1970年に日本国際交流センターを設立、1973年に財団法人として認可され代表理事となり、1985年に理事長に就任、現在に至っている。

 山本正は帰国後、日米の政治家、財界人、学者達が一同に集まって日米関係について論じ合う「下田会議」(1967年第一回会合)や日米の与野党議員が参加する「日米議員交流プログラム」(1968年第一回米国代表団訪日)、日米
欧の有力政治家や財界人,学者が共通の政策課題について研究し,各国政府への提言をまとめる「トライラテラル・コミッション(日米欧委員会)」(1973年第一回東京総会)を手がけ、国際交流の舞台を設ける黒子役に徹してきた。お
そらく海外にかかわる仕事や日米関係の研究に携わっている者であれば,彼の名前を知らぬ者はいないはずだ。

 また、山本正はこれまで歴代首相にも重用されてきた。1988年5月には竹下首相(当時)の私的懇談会「国際文化交流に関する懇談会」のメンバーとなり、1999年3月には小林陽太郎とともに小渕(当時)首相の「21世紀日本の
構想」懇談会の幹事に選ばれている。小泉首相との会見は2002年3月11日と2003年3月31日の二回の官邸訪問記録が残されているが、歴代首相と比べるとこの二回という数字は極めて少ないものとなっている。ただし、「首相を
囲む会」そのものが山本正人脈と言っても過言ではない。